「遊び」としての芸術


ここ数年、突如として花も咲かず実も付かずだったわが家のミカンですが、今年は沢山の花が咲いてくれました。

貧しいわが家では、かなり重要な食用の果実であり、レモンと並んでビタミン補給源でもあり、嬉しい。

まぁ、市場に出る糖度の高いものに比べるべくもない、野性的な味ではありますが、これはこれで美味しい。

うまく大雨とか塩害(これが鎌倉ではかなり脅威です。毎年、うちのモミジは塩害のためにきれいに色づいてくれません)の被害が少なければ、と祈るばかりです。

ところで、話は変わりますが、

芸術の根源として、「遊戯」を挙げる人がいます。

たしか、ドイツの解釈学の大家、ガダマーもそういうことを言っていたと思います。

「遊戯」の本質とは、っていうときに、幼児の行動を観察するんですね。

大人じゃダメなんです。大人って言うのは、何をする時も損得とかひとの評価を考えちゃうから。

「遊戯」はゲームとはちょっと違う。かぶるところもあるけれど。

単純に考えると、遊戯の最中で、幼児は無我夢中になっている。

大事なところは「夢中」じゃなくて、「無我」というところ。

もう一つは、なりきっているということ。おままごとなら「役者」になっているんじゃなくて、ママとかお姫様「そのもの」になりきっているんですね。

この二つのことが、遊戯の本質だとすると、次のことが導き出されます。

ひとつは、「無我」から、行為そのもの以外の雑念が生じていないということ。これは純粋さとか初心さとかじゃない、もっと深いところで、言葉で構成される概念や観念から自由であるということ。

もう一つは、演じているのではない、つまり極限にまで「模倣」していることで、これは古代ギリシャ以来芸術論では「ミメーシス」なんて言っているもので、コピーとかいうレベルでは無くて、模倣する対象のリアリティーを再現するところに意味があります。世阿弥のいう「ものまね」はこの辺のことを言っていると思います。

とすると、観念から自由であることとミメーシスが、芸術の根源であるということになりますが、

これはドイツの芸術論者コンラッド・フィードラーの主調と一致するんじゃないかと思います。

ここで言われる「芸術」は、20世紀以前の思想世界で生きていたものですが、残念ながら現代では「芸術」という言葉が拡大解釈されて、なんでもありになってしまい、定義不能になってしまいました(芸術が死んでしまったとか、意味がないと言っているのでは決してありません)。

少なくとも、上記の「芸術」に限って言うならば、「技術」と切り離すことが出来ないことはいうまでもなく、芸術家=職人です。

この職人という意識は、ピカソと同時代人のフランス人画家アンリ・バルテュスが強く持っていたものでした。彼の絵は、ちょっとロリコンぽくて性被害を助長するかどでポルノであるという非難もされますが、風景画に限ってみても、その絵肌や色調の美しさは抜群で、変な譬えですが焼きものの肌のような触覚美を湛えています。

職人の特色というのは、当然ながら、技術の卓抜さが評価の基準であり、それは習練・修練の蓄積・切磋琢磨と天性(タレント)によって獲得されるべきものです。

多くの場合、この修練は弟子入りという形で師から指導・教授され、徹底的に「からだ」で覚え込むものでした。

これが時代の変化により、観念性の肥大と商業主義=効率性によって、師弟→学校、工房→工場へ、

つまり「からだ」から「脳ミソ」へと比重が移ってしまい、「手作業」から「設計書」と「機械」へと変わりました。

このあたりは、まさに近代産業革命を境とする変化に他なりませんが、それは宗教的権威から自然科学が思想の主役になったことも意味しています。

端的に言えば、義理人情の世界から、合理的で功利的な世の中に変わっちゃったわけです。

もっとわかりやすく言うと、師弟=親子関係を基軸としていた社会が、雇用者と被雇用者=契約関係社会に変わったわけで、そこでは「数字」が絶対的な権威です。

この変化は、「遊戯」の終わり、を表しています。ゲームになっちゃったんです。

ゲームも遊戯性はもちろんありますが、大事なのはルール(法)というものが規定されていて、そのレールの上に乗って同一目的の達成を目指すというわけです。

ここには、真のマニエラ、手作業が失われています。究極的に、コンピューターにかなわなくなってしまうのです。

会社でもそうですよね、専門技術者よりも、経営戦略を描く頭脳職が上層部で高給です。

なにが欠けてくるかというと、もちろん、無我の模倣であるがゆえのリアリティーです。

これは、手作業だから、つまり個人によって個別に製作されるがゆえに宿った個性として輝きます。

たとえば、機械生産されたカップは道具として機能し、それなりの美しさを持っていますが、個性はありません。

けれども、ひとつひとつ手びねりで焼かれた茶碗の持つ味わいは、また別個のものでしょうし、そこにこだわるのが芸術愛好者たる所以でしょう。

コブクロの「たったひとつの花♪」と歌う曲がありますが、「ここにしか咲かない」という価値観はここに根ざしています。

つまり、「技術は機械化できる」のであるとすれば、「芸術は機械化しきれないなにか」、数字化されない何か、が命ということになるわけです。

おそらく、名人と称される職人は、そうした機械化可能な、数字化可能な技に留まらない、プラスアルファの何かを獲得した者でした。

だからこそ、それを評するに「こころ」とか「精神」とかいった心的な内容を持った評語が必要とされたのです。

現代アートでも感動や興味を呼び起こすものはもちろんありますが、どこか「冷ややか」なところがある。(どこか上から目線なんですよねぇ)

それは、この心的な評語を寄せ付けないところが厳然としてあるからだと思います。(コンセプチャル概念重視ですからね。)

ところで、

へぼでも自分で作ってみたいとか、安物でも手作りの物が欲しいとかって言う気持ちは、このあたりに起因するのかもしれません。

技術の点では、まったく話にならないにもせよ、

芸術作品と堂々と名乗れないかもしれないけれども、

無我夢中になって、身体(手)そのものになってリアリティに触れ得るのだとすれば、

芸術の根源に関わり、触れているのだということはできるのだと思うのです。

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