人間の評価?

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私たちはなんとはなしに、自分を含めて、ひとは一つの性格、キャラクターとしてまとまっているように見なしがちです。

でも、自分自身、前に書いたように一貫した言動をしているわけではないし、

一つの行動を選択しつつそれと同時に別の行動を欲していることに薄々気づいてもいるものです。

誰だってそうだろう。人生というと大げさだけれど、行動するということは常に一つの選択を行っているわけで(だからこそ自由とか可能性があるわけで)、

ということは別の選択もあり得るということだし、往々にして迷わず一つの道を行くという人は少ないでしょう。

しかも、その際の選択規準となるのは決して理性に拠るばかりではない、多くの場合はむしろその時その時の欲望や感情に促されている。

なんの考えもなしにたた欲するがままに行動した挙句、後悔することにもなる。

こういった行動形態をとる限り、人間というのは一面からでは理解できないシロモノであることは明白で、だれしも現在とは別の在り様が可能だったわけだし、将来的にどういう行動をとるかは、実は全く予測不可能。

それは、仏教で因縁あるいは縁起という言葉で理解しているように、人は行動を選択する前提として過去によって促され、現在という環境に大きく影響を受けるから、ちょっとした変化や狂いによって結果が大きく異なってくる必然なのでしょう。

諸行無常とか盛者必衰ということばが示しているのは、こうした結果観察された真理であって、

盛者必衰は逆に「衰者」が隆盛に転じる可能性をも示しているわけだけれど、諸行無常というのは変わらないでしょう。



ここから導き出される一つのことは、人間の生きざまとか個々の行為に必然というのは実は無く、

ほとんど偶然的な状況に応じて左右された選択であり、それが後付けで結果論的に「必然」と見做されているのだということ。

よく、「あんな卑しい」職業や境遇にあいる人が、「実は優れた」教育や教養や人徳や才能や技芸やその他諸々を持った人だった、というようなことはザラにあります。

それが分からない浅薄な連中が権力を持っている社会は不幸だ。虫や獣のように結果しか見ないから弱肉強食、無慈悲無慚(人の感情を持たない恥知らず)の輩ばかりがのさばってしまう(特に現在の日本の状況を言っているわけではありませんよ、別にね。)

私たちは、現に目にする社会的な地位や職業や生活状況から、人を評価し(値踏みし)、尊敬したり軽蔑したり、あるいは憧れたりがっかりしたりする。

でも、それは偶然的な結果としての現状が示されているわけで、その人の真の評価というか、人間的な魅力や性格を把捉できているわけでは全くないということ。

人間のはかなさ、っていうのは、このあたりに起因するもので、単に寿命云々の問題ではないでしょう。




これは自戒として思うのだけれども、人についてなんらかの判断をする場合には、銭湯や温泉で出会ったように「はだか」の状態が望ましい。

社会的な身分とか地位とか職業とかは無視して、その人がどんな言動をとるかという点を重視すべきだ。

その際、利口より賢明、賢明より情け深さを、私は評価したい。

この規準は、おそらく紫式部に代表される平安王朝人と共通するのじゃないかと思いますが、おそらく彼らは因果応報というのを「偶然性」ではなくて「必然性」として捉えていたようだから、現在の社会的ステイタスに重きを置きすぎていた。

でも、心ある人々は「偶然性」に敏感であって、慶滋保胤とか西行といった人たちは外見から人を判断したりはしなかった。

それが、「聖」とか「道心」を起こした者の姿として理想化されています。

この「はかなさ」をリアルに生きていたからこそ、貴族も武士も、老若男女、みな事に感じ(花の散るのさえ)涙したのでしょう。

とにかく、平安時代の人々はよく泣く。

「涕泣の文化」と呼びたくなるような情感尊重の風が、平安からずっと中世を通じて日本にはあったと思います。

実際、中世の勇猛な武将でさえ、しばしば人前憚らず号泣することが、合戦物なんかでも描写されています。(冷ややかになったのは最近、あるいは戦後のことじゃないかな?これについては、別途記事を書きたいと思います。)


「男は人前で泣くな」、なんて冷たい非人間的なことを何時から言うようになったんだろう?


私は、人前で、家来たちの前で、身も世もあらぬほどにさめざめと泣く主君や武将の姿が好きです。

その正直な姿。『平家物語』とか軍記物でもそうした例は多いけれど、例えば幸田露伴『連環記』の保胤や大江定基の姿なんか感動しますね。    


あまりに理性偏重のゆえに情性を女性特有のものみたいに見做し、男尊女卑の前提から感情を理性の下に組み敷き、

そうして人間味が薄くなってしまったような気がします。

ところが、その理性とやらは、多くの場合真の理性ではなくて欲得勘定に働く狡知でしかない。

先に、covid-19に応じた生活補助の案が出た際に、風俗業に携わっている人には補助を出すななどという政治家が何人もいましたが、かれらこそは上に述べたことを寸毫も分かっていない「無慚」な人々だと感じます。

風俗業だって、社会的に認められた職業であるということは別にしても、自ら好んで携わっている人もあれば、やむを得ず生きるために従っている人も居る。

どちらがどうと評価なんかはできないし、ましてや風俗業に従事している人々と政治家とどちらが人間として上か下かなんて、全くわかりはしないし、区別すること自体が問題。

弱者がどうのこうのという視点以前の話でしょう。もちろん、宮沢賢治が言うように、一人でも幸せでないひとがいたら、自分は幸せになれないというような心を、少なくとも政治家は持って欲しいものです。いや、政治家だけじゃなく、人間だれしもです。

また、帰郷した感染者を批難したり、感染者を受け入れたホテルに放火したりという、全く自分の利害しか考えられない人がいることに胸が痛みます。

というより、心底、恐怖を感じる。

関東大震災の時に、多くの韓国人が虐殺された事実を、リアルに想像できる。

人間の条件というのは、自分以外の人を自分として考え(感じ)られるという、コンパッション(同情)能力を持っていることだと思います。

ヒトではなくて、「人間」というのは、「間」つまり他者を気遣うことが条件づけられているということでしょう。

少年たちに遊び半分で殺された老齢のホームレスの方が、ふだん野良猫に餌を与えていたという話を聞いて、

どちらが「人間」らしいかは、明らかでしょう。

前に、ホンネとタテマエの話をしたけれど、余裕が無くなると、タテマエはすぐにかえりみられなくなって、

ホンネだけで行動する。

社会不安になると、ホンネだらけの人々が露わに出てくるようです。

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花の姿を愛でるとき、かならず「はかなさ」を、ひとのすがたに重ね合わせているのですよね。

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