自分の思考法から愛におよぶ(笑)

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いろんなことをブログに書き散らしてきていますが、
自分でも、ちょっと分からなくなることがあります。
っていうか、自分の言っていることって、一貫性があるのか無いのか。
そのときその場で言ってることが違うのか?どうか。

というのも、時々、この前に言っていたことと違うと指摘されたりすることがあるからです。
または、ひとからこの間こんなことを言っていたよ、と言われて、へぇ?って思うこともあったりする。
但し、その場合、要注意なのは、自分の真意が正しく伝わっていたのかどうか、ということ。
それは、私の言語伝達能力の問題でもあるわけですね。

それから、基本的なスタンスは変わっていないけれども、そのときに応じて話す内容は異なる場合もあると言うこと。
よく、政治家が、自分の非を認めたくなくて、あるいは正当に訂正を求めて、「それは恣意的な切り取りだ」って言ったりします。
それは確かにそういう所もあって、特に悪質な報道ではそれを戦略的にやる。S経新聞なんて常套的にやってるような気がする。因みにN○Kはそうじゃなくて、大事な点をわざと言わなかったりして問題の本質をすり替えたりごまかしたりするわけで、S経新聞より余程賢いだけに悪質ですが。

まぁ、人はともあれ、問題は自分です。
実は、私は単純な星占いを信じやすかったりして、生まれ月が双子座なんですね。で、少年時から二重人格みたいなところがあるとヘンに自覚(自認)しているんです。
あることを言っている時に、心の内でその反対もあり得るなぁってよく思っている。
それは、私の、ものの考え方の基本であって、
わざと、ある命題っていうと大げさですが、なにか言ってみる。
そして、その言ったことに対して、自分で反駁を試みる。
反駁がうまくいかないと、先に言ったことは正しい(少なくとも自分にとっては)ということになるわけです。
でも、反駁のなかに正当性がある時には、さらにそれに対して反論を試みる。
よく言えば弁証法です。これは、自分に限らず、みんなやってることだろうと思う。

問題は、人と話している時に、ふつうにこれをやっちゃうんです。こういうのを愚かと言うんですが。
賢い人は、寡黙ですよね。それは、不確かなことを人に伝えないために、自身の中で結論が出るまで口に出さないという賢慮でしょう。
ところが、このブログがそうであるように、
私は、まず口に出してから、それを練ってなんらかの結論に持っていこうとする、そのプロセスに他人を巻き込むんです。
なぜかっていうと、自分では思いつかなかったような反駁・反論が示唆されたり発見できたりという可能性があるからです。
完成度が低い作品を提示するようなもんですが、それを人の批評を聴きながら喜んで訂正修整するような感じ。
そうすると、弁証法で言えば、正・反・合となるわけですが、合というのがなかなか出ないのが現実です。だから、
正と反が、そのまんまあいまいに両立して、むりやり強いものの方に合わせて合goしてしまう。
仲の悪い兄弟みたいな感じになっちゃう。

そうすると、理想的な双子座モデルというのは、男女関係(異性カップル)かもしれない。つまり、
あくまでもモデル(概念型)ですが、生物学的に雌雄によって生命が生み出される、つまり理想的な「合」ですね。
ですから、双子と言っても、一卵性じゃなくて、二卵性のほうかなぁ。アポロンとアルテミスみたいな。
もっとも、一卵性でも異性の双子が産まれることもあるそうですが。
二卵性双子となるべき胚が一つになってヘルマフロデュトスとなるらしいです。
私が両性具有に関心が強いのも、そういった自分自身の性格によるのかもしれません。

でも、人格が二重のわけではありません。これで、一人の人格なんです。
二面性と言うべきでしょうか。まぁ、だれしも表の顔とは別に裏の顔を持っているもんです。
意図的に隠している、あるいは自覚している方のかおが、裏、なわけですが、こっちの方がホンネであることがふつう。

このホンネ部分が、恋人とか夫婦の関係で前面に出てくるわけですね。
つまり、二つの人格を、一つにしたいと望むときに、
二卵性双子のように、半分を共有したいと欲するわけです。
男性性の強いヤツは勘違いしてひたすら性交という肉体の結びつきによって合体を目論むわけですが、
女性性の勝ったひとは、精神的なつながりを強く求めるわけです。
つながりと言ったって、中島みゆきの「糸」みたいに経緯の糸が布を織りなすんじゃなくて、
1本の糸になりたいんですよ。同一化したい。
で、そんなのムリです。
だから、詩人は常に嘆き悲しみ、絶望して身投げしたりするものもいる。
まぁ、こんなに強い同一化願望というのは、おそらくエキセントリックすぎて、多くの常識的な人は
「糸」の状態、互いに違っていても、織りなされて一つの安定した状態となることを望むんでしょうか。

いつの間にか、自分の思考についての話が、人間関係の話になってしまいました。
こういう風に、話がどんどん逸れてしまって、意外な展開になっていくというのが、
これまた、私の傾向、というか、趣味。

暇な時は、こういう感じで、思考ゲームというか、なんか書き出してみると面白いですよ。
あらかじめ何を書こうかなどと考えてはダメです。すぐ行き詰まります。
他愛なく、なにか断定的なことを書いてみる。
断定的で無いと、反論が出てこない。その書いた断定的なことを、自分自身のナマの経験から反駁を試みる。
そうすると、どんどん、話・考えが紡ぎ出されてきます。
そして、自分でも意外なことを自分が考えていたとか、思っていたとか、いう気付きがあります。
お勧めです。

ところで、最初に書いた、自分に一貫性があるのかどうかの話。
すでに結論は見えてきていますが、
最近強く実感することは、
真理とか、愛とか、っていうモノ。
これは、なにかあらかじめあって、いつか到達できるるというような、ゴールなんじゃないなということ。
そうじゃなくて、行動することによって、生み出したり、現れたりするひとつの体験なんだということ。
到達目標じゃ無くて、努力目標みたいな。政治家がそれじゃダメですけど、
精神的な理想っていうのは、既成の「なにか」ではなくて、
そのときその場で、自分で作る/作ろうとすることなんだな、ということ。
愛に失敗し、真理は遙か遠くに霞んでいる、私のいまの感懐です。

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