つれづれなるままに、モーツァルトから想い出したこと。

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朝起きたら、雨。

なんか、拍子抜けして、ぼーっとしていたら、急に音楽を聴きたくなって。

モーツァルトのピアノコンチェルトっきゃないな、こんな日は。

お気に入りのクララ・ハスキル弾くハ長調コンチェルト。

第2楽章を聴いていたら、学生時代を想い出した。

いくつかの音楽って、記憶にリンクしている。だから、特別の意味がある。

中学生の時のストーンズやフォークソング、高校時代のショパン、浪人生活とジャズ、そして大学時代の節々に織り込まれた名曲の数々。

なかでも、モーツァルトのピアノコンチェルトのいくつかは、格別。

とある女性と一緒に聴きながら、愛を失ったことを確信したニ短調のコンチェルトを弾いていたのはケンプだった。

ハスキルのモーツァルトに酔っていた頃、私は2度目の大学生活の中にあった。

その頃、私より一回り以上も年上の女性と大学で懇意になって、かなり親しくなった。

といっても、恋人とかそういうのじゃ無くて、芸術とか宗教とかを本当に裸で話し合えるという、最上の「友だち」を持った喜びを感じさせてくれた。

恋人でもないのに、深夜何時間も電話で話し合っていたり。

既婚者だった彼女の名誉のために断っておくけれど、肉体関係とか、そういう類いのことは一切無い。

人間的な魅力が無かったわけではないけれど、年齢差というのはあったし、色濃いよりも、人生とか神とか芸術とかっていう

精神的な価値のほうが。もっと重要な気がしていた。

その女性はピアニストだったので、自然と音楽の話は多かったけれど、大学には宗教への関心からヨガー密教を学ぼうとして来ていたようだ。

本当に沢山の音楽家や演奏者のことについて、熱く感想を述べ合って。そして、ことごとく共感して、わかり合える喜び。

例えば、ビクトリアのプロ・カンツォーネ・アンティカによる合唱、メンゲルベルクのマタイ受難曲、ベートーヴェンはフルトヴェングラー、シュナーベル、そしてブッシュ・カルテット、ショパン弾きのパハマンなどなど。

中でもお気に入りのモーツァルトは、ハスキルのピアノ、交響曲ではシューリヒトとワルター、そしてハイドン・セット等々。

いま、彼女が何処にいるのか、どんな風に生活しているのか、もう20年以上も会っていないし、通信も絶えてしまっていてわからない。

それは、私が結婚し、また、彼女が新興宗教(私は偽物と見做している)に入ってしまったところで、断絶してしまった。



いまはわかる。

あんなに熱狂して、互いに理解し合えると喜び、神について、芸術について、人間について語り合い、共感し、深く感動していたこと、

それは、私たちが互いに、自らの鏡となりあっていたのだと。

あまりに共通する趣味と思考傾向ゆえに、語り合い、それが言外のことまで含めてわかってしまったがゆえに、

相手に対する尊敬・賞賛・愛情は、ほかならぬ、自分自身に対するそれでしかなかったのだということ。

「孤独」

私たちは、互いに夢中になって語り合いながら、実は深い深い孤独を共有していたのだということ。


そして、モーツァルトほどに「孤独」を音楽にしたものはいない。

ピアノコンチェルトでも、第2楽章のアダージョの切なさ、哀しさは類いが無い。ハ長調コンチェルトはもちろん、

彼が十代の頃の作である「ジュノーム」など、涙無しには聞けない。

その深い哀しみを、受け入れる決意を示すような終楽章の軽快さ、明澄さ。

ふたりがモーツァルトの中に見出していたのは、人類普遍の哀しみ、とか神の臨在とか、

そういったことは、本当かもしれないけれども、

いつまでも幼児の頃そのままの、ひとりぼっちの自分、

その自分の孤独を、優しく肯定的に抱擁してくれるような温かい懐。

たしかに、私たちは、それを知っていたのだ。

だから、彼女が入信したという報告とともに、静かに絶交を伝えてきた時、

私もなんら意外な感も持たずに受け入れたのだろう。小さな傷を感じつつ。

友情って、何だろう?

      いや、わかってるよね、たぶん。


ベートーヴェンの最晩年のカルテットは最も愛するものだけれども、

今朝のような、ごくふつうの雨の日には、モーツァルトが好い。




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