表すべきか、表さざるべきか

riemenschneider.jpghttps://iessonferrerdghaboix.blogspot.jp/2015/07/ha-4-ud-20-la-escultura-gotica-en.html ティルマン・リーメンシュナイダー「アダムとエヴァ」


前回に、全裸で造っていた少女像の腰に布を纏わせることにしたこと、また絵画と違って、彫刻は見る角度を指定できないということを書きましたが、この問題は、別の方にも発展するのです。つまり、リアリズムの問題。っていうか、表すか、表さざるべきか、という問題。


西洋絵画における裸体像の歴史で、いつから陰毛 pubic hair を描く/描かない ようになったかを、いろんな人が調べているようです。バカバカしいと思われるかも知れませんが、文化史としてみると、いろいろ面白いことが分かったりするものです。たしか、フックスの浩瀚な『風俗の歴史』にも様々な作例が載せられていたように記憶しています。


例えば古代における全裸女性の彫刻像に性器とか恥毛が表されていない場合、どのように考えるでしょうか?美術品として“節度ある”表現にとどめた、とするのは即断かもしれません。第一に、その女性像が普通の人間なのか女神なのかによって、意味合いが異なるでしょう。さらに、もともとは彩色されていた可能性もあります。場合によって恥毛や覆布が着けられていた可能性だってあります。また、習俗として脱毛の文化があったとか、娼婦のみが除毛する習慣があったのだとか、いろいろな可能性もありますから、それが文化史的な意味合いを持つのか、あるいは美術的な配慮によるのか、なかなか一概には言えないようです。


人体を美術品として見る風習が行われるようになったことと関連するとみれば、ルネサンス期が大きな転換点だったようにも思えます。ルネサンス期には人文科学に対する関心が大いに興り、人体というものにも解剖学的な知識が加えられていきます。同時にギリシャ・ローマ彫刻の発掘などにより、人体に対する美的な覚醒というか、人体=美という価値評価も築かれていきました。ルネサンス期には美容についても意識が高く、体毛除去について記した書物もあらわされたようですが。https://renresearch.wordpress.com/2012/12/09/did-renaissance-women-remove-their-body-hair/


ルネサンス期にはギリシャ・ローマの「人体を持った神々」の像が発見され、美しい人間が神のような称えられるという方向性を生み出したといえるでしょう。


神だから、裸あるいは古代の服装。

⇒ 裸あるいは古代の服装(に扮した)美しい人体像は賞賛すべきだ 

⇒ 裸の美しい人体は、芸術作品である

といったように、公衆の前でも堂々と裸を陳列できるようになります。なぜなら、それは芸術作品だからです。


ところで、古代ギリシャやローマ彫刻の男性像には陰毛が表されているのに、女性像、たとえばヴィーナス像にはなかった(理由は諸説ありますが)ために、芸術作品としての女性の裸像には陰毛を表さないことが一般的に、のちには約束事になりました。


ここでも諸説あって、たとえば男性像でも陰毛もなく、また成人男性なのにペニスが包茎であったり、不釣り合いに(自然の人体とは、ですが)小さかったりする作例が少なくないことから、理想性(純粋性)=“少年・少女”として、わざと成年としての性徴を表さなかったのだという説もあります。


そうすると、“なまみ”の人間像ではなく、つまり個人名を持たない抽象的・観念的な“人間”を表す芸術作品であるから、あえて少年や少女のように陰毛を表さないのだ、ということになるのかもしれません。もっとも、男性はともかく、ギリシャ・ローマ彫刻のヴィーナス像などでは陰毛だけでなく性器をも表していないので、この説はどうだかなぁ、という気もします。むしろ、“たしなみ”として、性器を表さないだけかもしれません。


有名なクニドスのヴィーナスは、古代ギリシャの著名な彫刻家プラクシテレスの代表作で、諸処にその複製が伝えられていますが、これは右手で陰部を隠す仕草、「恥じらいのヴィーナス」という類型の祖ともいうべき像でしょうか。しかし、隠すことによって“性的”な意味を強めているともいわれます。性的なこだわりのない子供は、隠さない(隠すという意識を持たない)というわけでしょうか。



ルネッサンス期以降、「アダムとエヴァ」像はイチジクの葉で隠すとか、あるいは手などで隠す作品が多くなりました。もっとも、ルネサンス以後の絵画などでも、うまい具合に(?)女性の場合あまり目立たないので、上手に陰影に紛れかしているというのが多いようにも思います。


一方で、ゴシック末期の彫刻のリアリズムではありのままの人間像を凝視するというか、非常に精神的な視線が注がれていたような作品も生み出されました。イタリアやドイツの彫刻などには、堂々と隠さずに表している作品もあります。


14世紀のイタリアのオルビエートはキャンティ・ワインでも有名な所ですが、ゴシック期に完成した大聖堂は大変美しい建築です。その正面には有名なアダムとエヴァ像が彫刻されています。⇒http://www.christianiconography.info/Edited%20in%202013/Italy/adEveOrvietoDuomo.html#eatFruit

シエナ出身の建築家・彫刻家のマイターニLorenzo Maitaniによって1309頃に作られたとされています。


16世紀のドイツの彫刻家コンラート・マイトConrat Meit (1480s in Worms; 1550/1551 in Antwerp)のアダムとエヴァ像は名作です。


同じくドイツの彫刻家によるアダムとエヴァ像⇒http://art.thewalters.org/detail/18763/adam-and-eve-temptation/


マイターニの優美で素直なエヴァ像も素晴らしいですが、マイトの作品では深い人間性というか、非常に哲学的で崇高なものさえ感じます(わたしは実見していないんですが)。それは、作家の克明な自然主義が、純粋性によって担保されていて、エロチックな効果をもくろんだものではないからでしょうし、とりわけエヴァのなんともいえない表情には心打たれないではいられません。人類に原罪という“死”をもたらすことになる選択/決意を、ジッと凝視するかのようです。


だいたいエロティシズムというのは社会的な産物なので、むしろ“隠す”⇔“露わにする”という相互関係によって成り立っています。隠そうとする行為が、隠されているものを強く意識させ、それをあらわにしたいという欲望を煽るわけですね。だから、クニドスのヴィーナスの恥じらう姿はかえって媚態ですらあり、裸体を描かない浮世絵が非常にエロチックであるとされるわけです。見えそうでみせないロココ画家ブーシェのような画家のヌード像の方がマイトのエヴァ像よりもよほどエロチックであり、猥褻でさえあります。


 現代アートにおいては、むしろ積極的に性徴を表していることは、欧米の美術館に行けばすぐわかりますが、そこでは単なる露悪趣味ではなくて、もちろん猥褻目的でもなく、芸術とは、美とは、文化とは、等々といった本質を究明している(のだと主張している)のですし、多分に政治的な意図を持っています。露骨に再現された性器による作品は、エロチックな要素はほとんどないですね。



 ところで、わたしは 自然 というものを神の造化としてこよなく尊重しますが、人間はその一部です。とすると、人間の体は神の造化といってよい。特に、健康的に成長した人体は「自然として美しい」。それならば、人為的に人体の部分を取捨選択して省いたり隠したりする必要はない。むしろ、そうやって一部を隠すのは人間社会が歴史的に作り上げてきた因習や伝統に盲目的に追従しているに過ぎない、というわけです。先のマイトのエヴァ像などは、現代の女性美の理想とはかけ離れているけれども、きわめて美しい。それは、自然そのものの姿だからかもしれません。


 そうすると、私が少女像に腰巻を着けたという心理的な実情は、上のような“芸術上の伝統”というか、因習に無意識的にしたがったのだと、いえないこともありません。人間の(人体の)美しさを表現したいのだという意向において、どこまで写実的であるのか。意外と難しい判断を強いられるのです。


 自然そのままを尊重するならば、あくまでも写実主義に立って性器さえ隠すべきではない、のか?

 それでは、髪型はどうなのでしょうか?流行というモノが人為的であり、自然そのままとはいえないのですから、髪は自然に伸ばしている状態とすべきでしょうか。たしかに、殊更に念入りに凝った髪型の女性が全裸で立っていれば、それは自然の中に立っているのではなく、人間社会の一場面と解釈すべきなのでしょう。それならば、社会の中であえて裸でいるということは意図的であり、裸であるという意味が前面に押し出されてきます。それは“自然”ではない。


それでは、芸術とは何なのか。ありのまま(の自然)を再現することが芸術なのか?


 これは大変な問題です。模倣という言葉は「ミメーシス」というアリストテレス以来の概念でさまざまに論じられてきた歴史があります。芸術の目的が、単なる表面的な形象の模倣・再現であるならば、写真の登場で絵画は引退です。3Dプリンタが現れた現在、彫刻も要らないことになります。けれども、芸術の目的はそんなところにあるのではないと、芸術学者たちは言います。芸術のミメーシスはそういったコピーとは異なるのです。


 ことば(概念)になる前のものの本質を直感的にとらえて作品として示すのである、とか。造形は手段であり、装置でありますが、表現したいのは表層的なあれやこれではなくて、人間の本質とか、世界の根源とかいった存在論的な認識なのである、と。


 難しくなってきました。要するに、彫刻家はモデルを見ながら、モデルの個人的な情報などではなくて、人間というもの、人間を人間たらしめている本質的なもの、を追究しているのである、と。モデルをかたどるのは、あくまでも手段であり、芸術(本質)が発現するための装置としてにすぎない。作家は手で粘土をこねながら、その本質的なものがちゃんと掴めているのか、表せているのか確認しているのだ、と。


 とするなら、髪型や陰毛は二次的なモノということになるかもしれません。というのは、髪の毛や陰毛を剃っても、人体は人体であり、人体の美しさ、あるいは本質は変わらないかもしれない。もちろんあってもいいけれども、そこで省略は可能となるばかりでなく、むしろ表現の効果を高めるために必要であるかもしれない。典型的な例は“トルソ”でしょう。マイヨールの「イル・ド・フランス」は頭部がない方が断然良いように、わたしには思える。

maillol-il-de-france.JPG


 そこで、ふりだしにもどってしまいました。


 まぁ、結局は、作家の必然性によるというほかないのでしょうか.....


 冒頭に挙げたリーメンシュナイダーTilman Riemenschneider (1460頃~1531)はドイツのゴシック末期の彫刻家。おそらく、同時期の最高位に位置づけられる芸術家といえるでしょう。アダムとエヴァの、これ以上はないというほどの真実さ。かれらの恥部は大きな葉によって隠されていますが、コンラート・マイトの作品のように何も隠さずに彫り上げていたらどうだったでしょうか。敬虔なクリスチャンだった作家には抵抗があったのかもしれませんが、わたしには不作為の姿の方がより自然であったようにも思われるのですが。

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